女書(歴史)

近年まで、江永県を含む地域では女性が漢字(=男書)を学習することは良しとされてこなかった。女書はこのような状況下で生み出され、姉妹や兄弟の妻など、主に女性親族の間で秘密裏に用いられてきた。また、男性が女書を学習することは厳禁とされた。また、工芸品などの模様のようにして文字を偽装することも行われた。多くの文書は一行につき5文字または7文字で構成された詩の形をとった。

女書は数百年にわたり存在してきたものであるが、最近までその存在はほとんど外部に知られていなかった。1982年、武漢大学の宮哲兵教授により「再発見」され、学術的研究が開始された。

現在までに知られている文献で女書の存在に言及している最古のものは、民国年間の1931年に出版された『湖南各県調査筆記』である。これは湖南地方の地勢や風俗を調査して記録した文書で、永明県 (江永県の旧称) 部の花山条に次の記述が見える。

〔…〕言い伝えでは、明の時代、譚という姉妹が〔…〕薬草を採りに山に入ったが、ともに座ったまま亡くなっていた。人々は山頂に廟を作って祀った (今は花山廟と呼ぶ)。〔…〕毎年5月には、各郷の女性が香を焚き礼拝し、歌扇を持参して声を合わせて歌唱して悼む。その歌扇に書かれる文字はとても細かく、蒙古の文字に似ている。県内の男性でこの文字を読める者はいないようだ。

花山廟は文革期に破壊されたが、廟と譚姉妹への信仰はその後も続いている。

太平洋戦争中には日本軍により女書の使用が抑制されたとされる。中国人による暗号文書としての使用を懸念したためであった。

文化大革命以前においては、女書による文書は著者の死去に伴い殉葬品として焼却する習慣があった。また文革期には多くの女書による作品が破棄された。このため、女書による作品で現存するものはきわめて少ない。文革後、女性の文化水準の向上に伴い、女性は女書によらずとも互いの交流が可能になり、女書の使用価値は減少した。その結果女書の学習者は激減し、女書は絶滅の危機に瀕し始めることとなる。

1993年、南京の骨董市場で、古銭愛好家が女書の刻まれた太平天国期のものと称する銅貨を入手した。この銅貨の背面には女書で「天下婦女 姉妹一家」と記されていたため、最古の女書文字資料ではないかと注目された。しかし、歴史学者の張鉄宝 (太平天国史) の鑑定によれば、太平天国期の貨幣の規格に合わないこと、当時の技術水準では製造が困難であること、鋳造されたものではなく銅材に彫られたもので母銭 (鋳型の母型) としても使用に耐えないことなどから、早くとも民国年間以降に、贈答や娯楽の目的で貨幣に似せて製作されたものであろうという。

2005年9月、呂芳文 (湖南省社会科学院歴史研究所) と郭輝東 (湖南省経済研究情報センター) は、湖南省東安県芦洪市鎮の斬竜橋で女書を刻んだ石碑を発見した。文献によれば、斬竜橋は宋代にはすでに存在したことがわかっている。石碑が橋と同年代のものであれば、女書文字資料の年代は最大で宋代まで遡ることになる。また、これまで知られているより広い範囲で使用されていた可能性も出てくる。

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